第壱章:お茶の発祥

中国で始まり、発展したお茶の歴史

お茶は中国で、古くからさまざまな飲み方で楽しまれ、歴史とともに変化しながら、一般市民へと普及していきました。中国の歴史の中で、お茶が登場するのは中国最古の薬物書である『神農本草経(しんのうほんぞうきょう)』となっています。神農とは、古代中国の神とされ、草木の薬効を調べるために自らの体を使い、何度も毒にあたっては薬草の力で甦ったといわれています。こうして自ら発見した薬の効能によって多くの民衆が救われ、神農は薬祖神としてその後、祀られるようになりました。この伝説から、お茶の発見は紀元前2700年ごろ、神農時代と考えられます。

第弐章:お茶の伝来・日本での始まり

最澄(さいちょう) 空海(くうかい)

日本独自の伝統を育むお茶

遣唐使が往来していた奈良・平安時代に、最澄(さいちょう)、空海(くうかい)などの留学僧が、唐よりお茶の種子を持ち帰ったのが、わが国のお茶の歴史の始まりとされています。
平安初期(815年)の『日本後記』には、「嵯峨天皇に大僧都(だいそうず)永忠(えいちゅう)が近江(現在の滋賀県大津市)の梵釈寺(ぼんしゃくじ)において茶を煎じて奉った」と記述されています。

栄西(えいさい)禅師

これが、わが国における日本茶の喫茶に関する最初の記述といわれています。
このころのお茶は非常に貴重で、上流階級などの限られた人々だけが口にすることができました。
鎌倉初期(1191年)に栄西(えいさい)禅師が宋から帰国する際、日本にお茶を持ち帰りました。栄西は、お茶の効用からお茶の製法などについて著した『喫茶養生記(きっさようじょうき)』(1214年)を書き上げました。
これは、わが国最初の本格的なお茶関連の書といわれています。栄西は、深酒の癖のある将軍源実朝に本書を献上したと『吾妻鏡(あずまかがみ)』に記してあります。

喫茶養生記(きっさようじょうき)

お茶の栽培

もともと日本の山間部の奥地に自生していた「山茶(さんちゃ)」を飲んでいたという説もあるようですが、お茶の栽培は栄西が、中国より持ち帰った種子を佐賀県脊振山(せぶりさん)に植えたのが始まりだといわれています。 その後、京都の明恵上人(みょうえしょうにん:鎌倉前期の華厳宗の僧)が栄西より種子を譲り受け、京都栂尾(とがのお)に蒔き、宇治茶の基礎をつくるとともに、全国に広めていきました。
当時のお茶は、蒸した茶葉を揉まずに乾燥させたもの(碾茶=てんちゃ)で、社交の道具として武士階級にも普及しました。
南北朝時代の書物『異制庭訓往来(いせいていきんおうらい)』(虎関師錬=こかんしれん 著)には、当時の名茶産地が記されています。京都各地および大和、伊賀、伊勢、駿河、武蔵では、寺院、寺領の茶園を中心に茶栽培が行われるようになりました。さらに、お茶栽培の北限といわれる茨城の奥久慈のお茶も14世紀に始まったといわれています。

第参章:お茶の文化の発展

茶道の完成

茶室

栄西の『喫茶養生記』は、わが国の喫茶文化普及に多大な影響を及ぼしました。
鎌倉時代の末期には中国南宋の「闘茶(とうちゃ)※」が武士階級に浸透、茶寄合いなどが盛んになり、茶の湯が急速に広まりました。
そして、戦国時代には、村田珠光(むらたじゅこう)、武野紹鴎(たけのじょうおう)、千利休(せんのりきゅう)らによって新しいお茶の礼式がつくられ「侘茶(わびちゃ)」として大成、武士階級に流行し、現在の「茶道」として完成されました。

※「闘茶」とは…中国から伝来した茶の味を飲み分けて勝敗を競う遊び。

千利休

千利休

千利休(本名:田中与四郎)は大永2年(1522年)大阪の堺の魚問屋に生まれました。父は、界隈では有名な商人であり、利休はその跡取りを期待され、品格や教養をみにつけるべく、16歳で茶道に入門し、18歳で当時の茶の湯の第一人者・武野紹鴎に師事、23歳で最初の茶会を開くほどの才能の持ち主でした。その後、千利休は、「織田信長」や「豊臣秀吉」に仕え、秀吉の懐刀として活躍しました。天正時代には黄金の茶室を設計したほか、わずか2畳ほどの茶室「待庵」(たいあん)を創作するなどその多才ぶりを十分に発揮しました。さらに、天正15年10月1日(1587年)、秀吉が主催した全国の諸大名や公家、茶人達総勢1,000人にも達する人々を招いて行われた、京都北野天満宮境内での北野大茶会(きたのだいさのえ)では茶頭をつとめるなど、天下一の宗匠の名を不動のものとしました。伊藤園は、この大茶会が開催された10月1日を「お茶の日」に制定しました。
(一般社団法人「日本記念日協会」認定)

お茶の近代化

永谷宗円 高林謙三

現在の煎茶の基礎は、江戸中期の元文3(1738)年に永谷宗円(ながたにそうえん)※によって考案された、「青製煎茶製法」に遡ります。当時は、富裕層が抹茶を楽しみ、一般庶民はまだ粗末であった煎茶を飲んでいる時代でしたが、宗円は15年の月日を要して考案したこの製法により、茶色だったお茶の色を美しい緑色に変えただけでなく、香りも味も圧倒的に優れた高品質の煎茶をつくり出しました。その後、江戸末期までは、お茶は山間部などで生産されていましたが、明治初期には今の静岡県の牧之原台地などの平坦な土地に集団茶園が形成されるようになりました。

茶葉揉葉機

やがて、始めに茶園開拓をした士族たちは徐々に離れていき、代わりに農民が茶園を継承し始めます。集団茶園の形成は、単に茶園の形成だけにとどまらず、流通の発展、茶商、仲買人、茶問屋などの育成、各種機械の発明など、茶業を中心とした関連産業の成立に影響を与えました。高林謙三(たかばやしけんぞう)※による茶葉揉葉機(ちゃばじゅうようき)※の発明をはじめ、機械化が急速に進んでいくのもこの時期であり、省力化とともに品質の安定化に寄与しました。 さらに近年では、センサーやコンピューター制御により、茶園のIT化が進み、現在では、効率の良い大規模茶園の運営を少人数でも行えるようになりました。

※永谷宗円とは・・・・
1681年山城国宇治田原郷(現・京都府綴喜郡宇治田原町)生まれ。現在の煎茶の基礎となる製法「青製煎茶製法」を考案。この製法を惜しみなく世の中に広めため、「永谷式煎茶」「宇治製煎茶」として全国に広がることとなった。
※高林謙三とは・・・・
1832年高麗郡平沢村(日高市)生まれ。地場の産業を興そうと製茶機械を発明。また茶の栽培にも力を尽くし、今日の狭山茶の隆盛に寄与した。
※茶葉揉葉機とは・・・
お茶の製造工程で、茶葉を揉み解して柔らかくして加工しやすくする機械。